肖像Bはモース、Cはフェノロサ。
モースは大森貝塚の発見で日本の考古学に、フェノロサは日本美術の再発見・再認識に大きく貢献した、「お雇い外国人学者」として知られる人物です。
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1850年~1904(明治37)年 英文学者・作家。ギリシャ生れ。
父がアイルランド出身であったことから英国籍となる。英仏でカトリック教育を受けた後、米に移民する。
ジャーナリスト時代に読んだ「古事記」(英訳)で日本への関心を深め、1890(明治23)年に来日。松江の中学校や熊本の第五高等学校で英語教師を務めた後、1896(明治29)年から(東京)帝国大学で英文学を講義。1903(明治36)年に帝国大学を解雇(後任は夏目漱石)された後は早稲田大学で教鞭を執るも、翌年に心臓発作で死亡。
この間、1891(明治24)年には松江の士族の娘・セツと結婚し、1896(明治29)年には日本に帰化をしている。
日本人の風俗、習慣、伝説、信仰など日常生活を見聞した体験に基づいた日本研究を深め、日本のありのままの姿を欧米に伝えた功績は大きい。また妻・セツの語る日本の民話・伝説を題材にした著作は今にいたるも日本で広く読まれている。
代表的著作、「知られぬ日本の面影」、「東の国から」、「心」、「神国日本」、「怪談」など。
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※八雲は16歳の時に左目を失明。白濁した左目を嫌った八雲は、顔の右半分のみ、あるいは両目とも閉じた顔でしか写真を撮らなかったようです。
※古事記の英訳 :バジル・ホール・チェンバレンというイギリス人がいました。明治のお雇い外国人の一人です。1873(明治6)年から1911(明治44)年までの40年弱を海軍兵学寮や帝国大学の教師として送り、その間日本の研究と海外への紹介に大きな功績を残しました。
和歌や俳句、能などその研究対象は広範囲に及んでいます。1882(明治15)年に「古事記」の英語訳を完成。来日後の八雲が親しく交わった人物の一人です。
※帝国大学での八雲・漱石の交代人事は、高給取りのお雇い外国人教師(八雲は月俸450円)を洋行帰りの国産教師(漱石は年俸800円)に替えることで、大学が経費削減を図ったというのが理由のひとつであったようです。八雲の月俸をそのまま12倍しても5400円。実に漱石の7倍ですネ。
※小泉八雲が教壇に立った学校は、松江中学→第五高等学校→(東京)帝国大学。夏目漱石の同じくそれは、松山中学→第五高等学校→(東京)帝国大学。なんと、「江」と「山」の違いだけ!
また、八雲は帝国大学において人気があり生徒に慕われていたそうで、その分後任の漱石は当初は学生から不人気だったといわれています。